昼に起床
昼に起きる。昨日は11時くらいに寝たから、10時間ほど寝ていたことになる。起きたら手がしびれていてしばらく動けなかった。
映画の仙人に作品を見せるために、映画をDVDに焼く。2、3度うまくいかずやり直す。こういう手順、一発でできた試しがないなと思った。
『何も変えてはならない』を観た。音楽の一回性、けれど全ての演奏は完璧でなくてはならず、ミスが許されない。音楽とは、何も変えてはならないことなんだなと思った。
同時に、ピアノ教室のことを思い出した。何度も弾くたびに先生に止められたり、ここはこうしなと指摘される。嫌ではなかった、それで上手く弾けるようになったから。でも向いてはいなかったかもな、と感じる。
映画の中で、「映画は楽しんで、音楽は正確に」的なことを言っていた。たしかに受けてる大学院の教授も楽しんで作ってと言ってた。(その教授は、『何も変えてはならない』の上映後にトークをしていたらしい) 映画のそういうところが好きだ。
夜なべ
夜なべで編集作業した。
朝方にパソコンがスタミナ切れで、フリーズするようになった。再起動させて書き出ししてDVDにおこす作業と並行して、気持ちを落ち着けるために豚汁を作った。やっぱ朝っていいなあ
無事にDVDになったので、1限のゼミへ
授業終わりに先生に一次試験おめでとうの言葉と、次への対策ちゃんとしなよってアドバイス受けた。ちゃんと本を読んで、映画たくさんみようと思う。用語とか分からないし
あと今日が最後のゼミだったっぽい、滑り込みだ。
DVD出そうと郵便局行ったら明日の午後到着ですねと言われ、ヤマトへ変更。出費〜
ちゃんと米を炊いて食べよう、次の映画も考えよう。とりあえず玄米炊いたら水の量多すぎて失敗した。水の量多いのに芯が残っている矛盾。何が起こってるんだ炊飯器の中で...
絵巻的日々
日々が絵巻のように地続きだと認めるようになったのは小学生の頃だった。月曜火曜水曜、一日二日三日、名前が変わっても日々は続く。
なぜそれを認められなかったのか、理由は幼稚園に遡る。
その頃はごっこ遊びが主流で、5人くらいでプリキュアやゴーレンジャーやポケモンのキャラになりきって、私達なりに物語を紡いでいた。それは大体夕方に始まり、お迎えの親が来るまで続けられた。私の両親は共働きで定時まで働いていたので、同じく迎えがこない片親の子と最後まで残る方だった。また明日ね、と16時くらいに親と手を繋いで帰る皆を見送っていた。先生の「〇〇ちゃんママが迎えにきたよ」と呼びに来ることとか、窓から親の姿を見た友達が玄関まで走る姿に少し寂しくなった。そんな時、みんなは「また明日、〇〇ごっこ第2弾しよう」と声をかけてくれた。その一言が、また明日も遊べるから18時の迎えまで待とうという気にさせてくれた。
だが、なぜか第2弾は絶対に行われなかった。次の日の夕方には違うアニメのごっこ遊びが始まる。絶対に続きはない。一度、続きを持ちかけたがイマイチ盛り上がらなかった。
そう、このごっこ遊びが1日ごとに初期化されて行くから、私は地続きに思えなかったのだと思う。実際ごっこ遊びが1番楽しかったし、それが終わる時が1日で1番悲しかった。
小学校に上がって鍵っ子になってから、ごっこ遊びはしなくなった。それをきっかけに、なんとなく今日が次の日に続いていることを知る。(誰かの未来を生きることは今を生きること的な歌詞を聞いたことも要因かも。)
現在は一週間でレポートを書いたり、1ヶ月で作品を作ったりするので地続きの生活じゃなければ成り立たない。し、今のところそういう絵巻みたいな生活が割と好きだ。